『にくをはぐ』は遠田おとさんの作品です。父が狩猟し千秋が獲物を捌きますが、千秋は捌く模様を配信し、それで生計を立てています。
千秋は性同一性障害。女性の体ですが心は男です。
ここから先は、完全ネタバレで、私なりにあらすじをまとめ、そのあと感想を述べています。ご注意下さい。
千秋を女性の体に縛り付けているのは母の遺言と父の娘の幸せを願う思いです。母は千秋をよいお嫁さんにと願い、父は千秋が幸せになるために結婚して欲しいと願います。
父の癌をきっかけに、父の「娘の幸せを思う」気持ちは、千秋の幸せに繋がっていないことに、父も千秋も気づきます。
千秋はSRS(性別適合手術)を受けることを決意します。親友の高藤(男性)は、SRSを受けた後に自殺するGID(性同一性障害者)が多いこともを伝えて懸念を示しますが、千秋はむしろ高藤が関心を持って調べたことに感謝し、男として死にたい、ときっぱり宣言します。
千秋が手術から帰ってくるまでの間、父もいろんな本を読んで娘の気持ちをわかりたいと努力します。
2年後、千秋が配信を復活させたとき、女性だった千秋のファンの中にはがっかりする人もいますが、応援してくれる人もいて、むしろ父が別人のように痩せていることに注目する人もいます。コメントを見て高藤は微笑み、千秋はカメラに向かって「彼女募集中」と宣言します。
にくをはぐというタイトルに猟奇的なものを感じましたが、表紙を見るとそうではなく、狩猟の話なのではないかと想像して読みました。胸を強調した女性の姿から、女性狩猟家を想像しました。『カリギュラ』というAmazon Primeの番組で女性狩猟家によるカラス狩りとうり坊の調理のドキュメントを観たことがあるのも影響していました。
しかし、メインテーマは狩猟ではなく、GIDでした。女性であること、特に豊満な胸を強調して配信している千秋に、医師は「一般には金のためだけに躰を晒すGIDは少ない」として理由を問い、そしてSRSを勧めます。千秋のことを真剣に考えてくれる医師がいることに、読者としても救われ、ここでちょっとほろりとしてしまいます。
千秋は子供の頃から狩猟に出たく、素直に、男だったらよかったのに、と言葉にしていましたが、その言葉が真剣に取り沙汰されることはなく、千秋もそれをあたりまえのように受け入れていました。ある日父の狩猟にこっそりついて行った千秋は危うく父の撃った弾丸に殺されるところでした。父は女の子の体に傷をつけてしまったと泣き、その日から千秋は父の望み通り娘として生き、狩猟には出ず、獲物を捌くことだけで自分を抑えていました。
さらに、死に至る可能性のある病に侵された父のために、千秋は偽装結婚まで考えます。親友の高藤がここで千秋に付き合って一緒に父の前に座ること、その高藤の想いは恋愛感情ではなく親友としてのものであることで、さらに読者の心は動きます。しかし、父には彼らが恋愛関係にないことはお見通しです。大切なのはお前の幸せだという父に、初めて感情が爆発して、自分の幸せは自分しか知らない、と叫んだ千秋は、初めて父さんのためではなく、自分の幸せを考えることを決意します。
父は、偽装結婚を引き換えに抗がん剤治療をうけいれるようにと説得しようとした娘の気持ちに驚き、そして何より、今まで娘の幸せだと信じて疑わなかったことが娘にとっては幸せではなく、娘の心からの叫びを自分が聞き流して過ごしてきたことに気づきます。
千秋がSRSから戻ったとき、父は千秋に、千秋が自分に素直に向き合ってつらい手術を乗り越えていた間に、自分も千秋の幸せを考え、思い込みを捨ててあるがままの千秋を受け入れるための準備をしていたことを率直に語ります。ふたりが「言わなくても伝わる」とか「どうせわかりあえない」という態度をとるのではなく、ちゃんと言葉にして語り合い、これから一緒に猟をするのだと、コミュニケートしていることが、読者としても嬉しく思えました。
2年後に父さんが痩せているのは切ないですが、一緒に猟にでているのですから、抗がん剤治療を受けてしっかり病いに立ち向かっているのでしょう。千秋は配信の心無い言葉をスルーする強さをみせるし、ファンたちのなかにも温かいコメントがあることに、読者の心もさらに温まります。
後日談で、どんどん少年がえりしている千秋と意外と元気そうな父を見て、さらに気持ちが明るくなりますが、それだけでなく、とっても性格のいい男である高藤に素敵なパートナーができたこともとても嬉しく、読後感のとってもよい素敵な作品を読めたことに満足できました。
この単行本は短編集なので、他にも素敵な作品を読めます。遠田おとさんにも注目していきたいです。