『累』(かさね) は松浦だるまさんの作品です。稀代の醜女淵かさねの、亡くなった母透世は、これまた稀代の美人女優でした。
醜い容姿故に、小学生の累 は壮絶なイジメを受けています。美少女のイチカがイジメの首謀者で、彼女はいつものいたずら心から、累を学芸会の主役に推薦します。
ここから先はネタバレありで感想を述べています。

しかし、本番の舞台で、累の演技に、観客もクラスメイトも気圧されてしまいます。それが面白くないイチカは、芝居を中断させます。そしてそのあとは自分が主役を演じるとクラスメイトに宣言した後、累を、人気のない場所に連れ出します。脅して、その後の演技を辞退させるためです。
そこで、累は母の形見を使うことを決意します。形見とは、赤い口紅。この口紅をひいて誰かに口づけをすると、その相手の顔を一時的に盗むことができるのです。イチカの顔を手に入れた累は舞台に戻って演技を続け、観客とクラスメイトを魅了します。
時間が経つと顔は元に戻ります。もしかして、女優だった母の美しい顔も、この口紅によってもたらされたものだった?ということは、母は、盗んだ顔を固定する方法を知っていた?
大人になって家を出た累は、母の口紅の秘密を知る男と出会い、顔を貸してくれる美女を手に入れ、女優の道へと邁進します。目的は、自分の存在と才能を認めてもらうこと。借り物の顔、母への憧れや執着、自分自身の存在意義。そして、累に顔を貸すことになる美女たち。生まれたばかりのかさねの醜い顔を見て、母とともに累を追い出したという父親の存在。物語は、ただ「醜い女性が美女に変身する」というシンプルなものではなく、ひとびとの執着と野心がからみあって、それぞれ行動を起こした結果、思いがけない結末にたどりついていきます。

オンライン書籍の課題
昨今の PHP脆弱性さわぎがあり、Renta!もしばらく閉鎖されてました。高市首相の警告メールが出たのは夜中でしたが、Renta!はその日の朝とかから、閉鎖されてたような気がします。このブログを書いている時点で、1週間ほど経っていますが、購入済みの作品のみ、読めるようになっています。新規作品をチェックすることはできません。2-3日前にみたRenta!運営の X には、応援コメントがいっぱいついていました。やっぱり、人の作品をデジタルで配信しているサイトなので、ここでデータを盗み取られちゃったら、漫画という文化自体を破壊しかねません。個人情報の漏えいも困るけど、漫画家さんのためにも、サイト運営はどうぞご安全に。ということで、我慢はできたのですが、漫画にはめちゃくちゃ飢えていました。大量の紙マンガを管理し続けるのは無理だから、と電子書籍を活用していますが、デジタルはこういう問題もあるのだな、と実感しました。
おもしろかった!でも読み手の主観によってテーマがぶれることも
で、『累』は、読めなくなる直前に一気読みしてしまった作品です。途中でサイト閉鎖にならなくてよかった!発表された時点でかなり話題になっていた作品な気がします。映画化もされています。人間の「美醜」をテーマにした作品、と紹介されることが多いようですが、私は「演劇」の作品として読んでしまいました。
感想を述べる中で、批判的に聞こえてしまうかもしれないので先に強調しますが、これは私にとってとてもおもしろい作品でした。ユニークな設定の中で、登場人物のキモチの動きが丁寧に描かれ、その動きやそこから来る行動に破綻がなく、ドキドキしながら読み進められました。特に、ラストに至る流れは、作品のテーマを浮き立たせます。私にとっては納得の行く素晴らしい作品でした。
さて。女の子が「演劇」に取りつかれ、「女優」として成長していく姿を描いた作品として、私の世代の誰もが頭に思い浮かべるのは美内すずえさんの『ガラスの仮面』です。誰かがひっきりなしに「今目の前で起こっていること」を解説してくれます。このスタイルは、漫画家が集結して切磋琢磨したという伝説の「トキワ荘」のリーダー格・兄貴分だった寺田ヒロオさんが、スポーツマンガの中で編み出した手法だそうです。『ガラスの仮面』もこの手法を採用して、北島マヤの役者としての才能(というより本能)がどれほど素晴らしく画期的で意表をつくものであるかを、サラブレッド女優である姫川亜由弓さんや、重鎮の演出家である小野寺一さん、あるいは月影先生が解説してくれます。しかし『累』では違います。
『美醜』がテーマ。『演劇』はモチーフ。
累の演技が解説されないのは、この作品のポイントが『ガラスの仮面』と異なり、演技にあるのではなく、美醜にあるからだと思われます。でも、私はこの作品を、演劇マンガとして読み始めちゃったので、解説してもらえない、というより、かさねがどんな演技をしているかわからないのはちょっと残念でした。
自分の顔を累に貸して、累の顔をして街を歩いた美女は「みんなの視線が恐ろしかった」といいます。あまりの醜さ故に、見知らぬ人が、敵意や哀れみをむけてくるからです。しかし、累の本当の顔は、ゆがんだ大きい口元と異常に大きい目しか描かれず、ほぼ髪にかくれた状態で読者に提示されるので、累の醜さを読者が客観的に判断することはできません。実際、どうなんでしょうね。美女は美女として、道を歩くと皆が憧れや羨望の眼差しを浴びているということが、大いにありそうです。だから知らず知らず「人は私に注目してあたりまえ」というオーラを発しており、実際はブサイクな累の顔だったからみんなが冷たい目つきになった、とかかもしれません。読み手の妄想力をかき立ててくれる描写です。
俳優さんのオーラ
かなり以前、知人がATMに並んでいて急に「いま後ろにめちゃくちゃかわいい人がいる!」と感じ、振り向いたらCMで大人気の女優さんが立っていたそうです。私は「オーラ」とか普段感じないと思っています。でも、美輪明宏さんの『椿姫』で、登場した瞬間の美輪明宏さんはガタイのいいおじいさんに、周囲の女優さんたちは美しい貴婦人に見えたのに、3分も経つと、もう美輪さんに釘付けでそれ以外の女優さんたちは完全モブ、ということはありました。俳優さんの魅力って、そういうものなのですね。
累は、美しい顔を得られさえすれば、大舞台にメインキャストとして立つことができます。必要なのは顔だけ、というところが「美醜」をテーマにした作品なのだと思います。オーラが上述のように「姿と関係なくにじみ出るもの」だとすれば、平素の累はどんなオーラを纏っているんだろう?と、気になります。美人のときは女優オーラ、本来の姿のときは卑屈オーラなのかもしれません。演技と外見の美しさは密接にからみあっていて、切離して考えるのは難しく、この作品はやっぱり演劇をモチーフにするのが一番しっくり来るのがわかります。キャバクラで莫大な富を得るために美人になりたい、そのためなら非常識な接客要求も我慢できるって話だと、累に共感する前に、ハードルを飛び越えないといけない気がします。
「演劇」劇であるがゆえの、読み手の葛藤
累は、途中で顔を借りる相手を変えたにもかかわらず、ふたつめの顔でもあっという間に世にでます。そうしたら絶対に「あの女優さんに、演技がそっくりの女優がでてきた!」とか「あんなの(新しい顔)は、あの女優(前の顔)のサルマネに過ぎない」という批評家やファンがでてきておかしくないと思うのです。でも、累ではそういう描写がほぼなく、かろうじて、恋人関係にあった男性俳優にばれるのではないかと心配する程度です。これはちょっと、俳優さんのファンを舐めてる気がしますね。累が美女なだけの女優さんだったらそうは思わないのですが、尋常ならざる演技力をもっているので、絶対に「彼女(ふたり目)の演技は、彼女(ひとりめ)の演技の真似っこ」だと言って、糾弾してくるファンがいると思うのですよ。そんなファンが、累の秘密に気づいて葛藤する、というストーリーもあり得たと思います。そんなの描写してるとどんどんテーマから離れてっちゃうので、描かなかった判断はナイスだと思いますが。
累の出自が判明していくところ、顔を奪われてしまった女性たちや、その周辺の人物の葛藤や、累に協力する人の思惑とか、秘密に気づいてしまった人の行動とか、めちゃくちゃおもしろいのです。読み始めたら、ノンストップで一気に読み切るしかありません。
顔を盗む口紅自体が、斬新なアイデアなのですが、それだけせなく、人々の環境や境遇もそれぞれユニークで、創作者としての松浦さんの尋常ならざる才能を感じます。
累が「あと3日しか演じられない」という状況下で、動揺して演技に集中できないのが、演劇ドラマとしては、残念でなりません。人間ドラマとしては、理解できるのです。「この人には今日しか見てもらえない」時に無様な姿を見せてしまう、しかももう二度と観てもらえない、というのは、人間ドラマとしては受け入れられますし、切ないです。でも、累はいままでずっと天才的な演劇人だったのに、「とてつもない心の葛藤により、あの天才女優が演技すらできない」という設定に納得できませんでした。累が女優であることは、単に美しさをひけらかすための手段ではなく、美醜と深く関わるアイデンティティだったのでは?
結構お金をかけているに違いない舞台なので、累があの状態だったら多少カリスマがなくても代役をたてるか、もしくは公演中止で払い戻しにするべきだったのでは?と考えてしまいます。
北島マヤも演技に集中できないことってあったと思うのですが、そちらは周囲も含めて、あくまでも演劇人として葛藤し、『累』では、累のキモチに焦点をあてて描かれていました。だから決して、作品として問題があるわけじゃなくて、私の好みの問題です。
妄想を掻き立てられる、広がりのある作品
この作品がおもしろいのは「じゃあ、顔の美醜がそれほどまでに、本人の評価に直接つながる職業ってあるだろうか」と、読者がかってに妄想を膨らませられるところにあります。
あくまでも私の思い込みですが、たとえばダンサー。クラシックのバレリーナは、プロポーションは才能のひとつです。プロポーションが良くなければどんなに頑張っても「技術的に素晴らしいけれど、姿形は残念なひと」という評価になる気がします。顔は問わないと思うのですが、ブサイクなことに悩んでいる累が、舞台で光り輝くのは難しそうです。
累の容貌は、会社員になるのも難しいように描かれていますが、美女になっという理由で成功するのは困難そうです。モデルも、累の場合はランウェイを歩いても「服より顔をみちゃう」となりそうです。って考えると女優がいちばんわかりやすいのかなあ。
「役者として天賦の才がありながらも美醜にこだわっている」設定は、ラストへのつなげ方にも深く関与していて、作品としては本当におもしろいです。
現実世界では「女優って、自分だけが演じて、技術を見せつけて高い評価を得れば満足」ではないのではないか、と。舞台はチームでバランスをとってつくるものだし、演劇の観客は、美しい俳優ひとりか数人を観れれば満足なわけではなく、美しい俳優さんたちを含めたパフォーマンス全体を観に来てるんじゃないかな?だとしれば、重大なヒミツを抱える累は、一緒に舞台に立つ仲間たちと、どのように信頼関係を築いていったんだろう、と考えさせられます。
決してそこを読みたかったわけではなく、荒唐無稽な設定をベースに構築された作品でありながら、作品世界に思い入れして、作品内では描かれていない部分までも想像させられました。それが、とても面白かったです。


