「天智と天武」は、作画 中村真理子さん、原作 園村昌弘さんの作品です。舞台は明治。長らく閉鎖されていた法隆寺の夢殿。封印されていた救世観音像の姿が露わになると、その後頭部には釘が打ちつけられています。時は古に戻り、美しい立像と光背に似つかわしくない武骨な仕打ちの理由が語られます。
ええと、ブログの書き始めはこんなんだったかな。2年以上ぶりの投稿となります。何故そんなに間があいたかというと、、、Youtubeにハマっていて、漫画を読むヒマがなくなっていたからです。お気に入りは数あるけど、特に「ゆっくりオカルト研究所」さん、「カカチャンネル」さん、「教えて!オカルト先生」さん、「ホッカイロレン」さんです。関心のある方は是非、のぞいてみてくださいね!
久しぶりにRenta!に戻ってくると、期待どおり完結してるもの、危惧してたとおり更新されてないもの、まだまだ絶好調で巻数を伸ばしてるもの、そしてもちろん、好きな作家さんの新作が山ほどありました。もうずっと買っていなかった反動で、未読だったものを次から次へと買いまくったのですが、その勢いで「気になってたけど既に巻数が多かったので手をつけていなかったもの」まで買ってしまって、それはもう食費が圧迫されるほど買いましたとも。そのかわり、好きだけど、巻数を重ねてて、買っても買わなくてもどちらでもいい、と思っているものを保留することができました。
「気になってた」は、1巻を購入または無料になっていりときに読んだことがあるものです。「天智と天武」はそのひとつでした。このあとは完全にネタバレしていますので、未読の方はご注意ください。

中大兄皇子は、百済からの食客、豊璋を従え、蘇我入鹿を暗殺します。もう最初っからネタバレすると、皇子は入鹿に惚れると同時に、自分の母が入鹿に夢中で、息子である自分をなおざりにしていることに傷ついています。入鹿と母の間にできた異父弟の大海人に会うことは激しく拒んでいましたが、成長した大海人に会ってみると大好きな入鹿にそっくり。複雑な好悪感を抱きますが、表面的には「苦しめてやる」とサディスティックな気持ちが目立ちます。
大海人は大海人で、中大兄皇子に惚れちゃってますが、同時に父の仇として陥れようとする気持ちも決して隠そうとはしません。
孝徳天皇を難波宮に置き去りにした事件、有間皇子を処刑、百済を助ける名目で朝鮮出兵、などのイベントをこなしながら、中大兄皇子と大海人皇子は愛憎を交わし合い、中大兄皇子は天智天皇として即位して、豊璋は中臣鎌足となり藤原家の礎を築きます。天智の息子大友は大海人に恋慕を抱きつつも父への愛も貫いて、天智亡きあと、大海人と大友は激突します。大友の意思通り大海人が勝ち、天武天皇として君臨します。
時が過ぎ、鎌足の息子不比等は、兄の定恵を暗殺させたのは天武、と信じ、日本紀を編纂させるなかで天智の正当性を強調し、天武を貶める表記をさせますが、実際には定恵の死は天智が画策し、鎌足がダメ押ししたことを知って「日本紀を書き直さねば」と嘆きつつ発作で命を落とします。
これをきっかけに都には問題が溢れ、それは入鹿の祟だとの風評が流れます。これを鎮めようとした天皇家に対し、天智の孫である行信が秘策を授けます。入鹿の鎮魂のため「聖徳太子」という人物をでっち上げて入鹿の業績を聖徳太子の業績として崇め、一方で太子に反対して中大兄皇子に成敗された悪役として入鹿を定義するのでした。
法隆寺には、大海人が父入鹿の姿に似せて彫らせた(作中の意識では「素晴らしいプロに彫っていただいた」)救世観音像が祀られていましたが、天智から大海人への強い望みで本堂から撤去されていました。入鹿の呪いが激化する中、天智の孫たちが押しやられていた救世観音像を改めて夢殿に封印しました。封印の日、時間も限られた中で光背を支える柱を持ち込み忘れたことから、救世観音像の後頭部に直接釘を打って光背をとめるという荒業をせざるを得ませんでした。
この後、戦乱の世に封印が解かれた際も、この異様な救世観音像を人々は畏怖し、封印をまた戻すということをしており、冒頭の明治の時代につながっていたのです。

天智天皇こと中大兄皇子と、天武天皇こと大海人皇子のお話や、その近辺の歴史は、少女漫画家さんが大好きなテーマです。長岡良子さんの古代幻想ロマンシリーズや、大和和紀さんの「額田王」はリアルタイムで夢中になって読んだ覚えがありますが、少女漫画史に燦然と輝く(と、私が思う)山岸凉子さんの「日出処の天子」とこの作品の親和性を最初から感じるのは、やはり最初から男性同士の恋愛感情がにじみ出ているからでしょうね。
全11巻の作品ですが、5巻までの表紙は、上半身裸の男性の正面図と、その奥にいる人物の横顔です。これを「釣り」と呼ぶ読者もいますが、終始BLになっていつわけではありません。でも、一気読みすると、天智、天武、大友が要所要所で愛情に拘るので、なんだかめちゃくちゃBLな物語のように思えてしまうのでした。
昔、大和和紀先生の額田王を読んだときに友人が笑っていたのですが(批判的ではなく)、中臣鎌足は死亡時55歳です。当時高校生だった私にとってはおじいちゃんです。でも、大和和紀先生の描く鎌足の遺体は、登場時と変わらず、サラサラのロングヘアが美しい青年でした。大河物を描くとき、15歳ぐらいの少年少女から青年期中年期老年期の変化をどう描くかは、どの作家さんも悩むのではないでしょうか。
漫画を読んで初めて年齢を意識したのは池田理代子さんの「ベルサイユのばら」です。マリー・アントワネットが途中から老けていて、小学生低学年だった私は混乱しました。だって、オスカルとアンドレは、さほど変わった気がしないのに、何故アントワネットだけ明らかに違う?と、感じたわけです。多分、アントワネットは母になったからだと思うんですけど。もっとあとに同じ池田先生でエカテリーナ帝を読んだときは、少女期、壮年期、老年期と描き分けがされていました。ブクブク肥って若い男性を次から次へとベッドに連れ込むエカテリーナは衝撃でしたが、それでも往年の美女っぷりがうかがえる、知力が高く、閨事より政治や後世の評価に心を傾ける美老婆は、十分に読者を惹きつけました。美しかったポチョムキンの老年期にはさらに衝撃を受けました。エカテリーナが老女になってからも連載がしっかり続いたのは、ベルばらが、オスカル死亡後の連載期間を区切られてしまっていたことを思うと感慨深いです。漫画の編集者が「主人公が若い美形じゃなくても読者は読む」と自信を持ったということで、社会における漫画のポジションが変わったのだな、と思います。
閑話休題。天智と天武は、登場時から最期まで、その姿がまったく変わりません。時が経つと老ける人物もいるし、いわゆる子役も成長しますが、中大兄と大海人は変わりません。
豊璋も変わらず、です。見た目が変わらないので、私の中で時の流れが歪んでしまうことがありました。入鹿は若く、入鹿に惚れる中大兄とさして年齢が変わらないように見えます。特に、入鹿は、自分の子であり中大兄の異父弟である大海人に会って欲しい、と中大兄に懇願するとき、「会ってくれるならあなたに抱かれてもいい」と示唆するので、どうしても入鹿と中大兄の2人は同世代と思えてしまうのです。
このとき大海人はまだ少年なのですが、すでに中大兄に惚れていて、2人の様子を覗き見していて、パパに皇子さまを寝取られてたまるか的なことを思います。ここで、私の印象では、入鹿は少年の父として35歳ぐらい、中大兄皇子は入鹿と同世代、大海人は15歳ぐらい、中大兄皇子の母は50ぐらい(入鹿と同世代の中大兄の母だから)、という相対関係が、無意識にできてしまいました。後になって、中大兄と大海人は6歳差、というセリフを見てビックリ。ちゃんと頭の中で、入鹿と中大兄の母が夫婦として普通の年齢関係で、中大兄は若いのだ、と理解してるのに、論理的に成立しない変な相関図を自分の中で作ってしまったのが面白かったです。
にも関わらず。中大兄皇子は死ぬまでずっと、19歳から25歳ぐらいにしか見えず、大海人はずっと28歳としか思えず、悩みました。
この作品は1巻が紙で最初に発行されたのが2013年、最終巻が2016年なのですが、大海人と額田の顔を見ると、私には、先に挙げた長岡先生のロマンシリーズと同時期の古い絵柄に思えてしまって、なんとなく違和感をもってしまうのでした。長岡先生のシリーズって多分、1980年代ですよね。何がそう思わせるんだろう。すごく不思議なんですが、大海人を見ると昭和の美男子と思っちゃうんです。性格は意外と悪くて、しょっちゅう悪い顔してます。中大兄皇子にイビられるし、豊璋の子どもへの愛情に寄り添って、ずっと敵でしかない豊璋を、結構助けます。すっごい違和感。悪い意味じゃなくて、大海人のこの複雑な性格と、その恩恵を受けた豊璋の複雑な思いは、作品に大いに魅力を与えています。
それに対して、中大兄はなんかシンプルにサディストなんです。入鹿を抱きたいとか、母への満たされない愛とか、大海人ともえっちしたいとか、子飼いの豊璋も含め、他人が苦悩する様を見下すのが大好きとか、なんか常に子どもっぽいんです。彼のサディストで無償の愛に飢えていて素直じゃないところは、大海人の性格の悪さとそれに矛盾したいい人なところと、双璧を成す、この作品の魅力です。
ただ。私は人よりちょっとバカで洞察力がない人間なので、おそらくはそのせいだと思うのですが、この作品を読んでいるとしばしば「お前ら、恋愛感情しかないのかよ!」と思ってしまうのでした。
豊璋には「制圧されてしまった百済の復興に貢献する」という強い思いがあるのですが、それよりも中大兄に惚れているとしか思えない動きをします。でも、彼が中大兄への恋慕を直接語るシーンはなかったような気がする(多分。あとで読み返してみます)。百済再興の夢がついえた後に中臣鎌足としての人生を送ることを選んだ動機が、ストーリーのクセから考えると「大陸人としての自我を投げうって、生粋の日本人として天智天皇の治世を守ることに全身全霊を捧げる。自分の存在のすべては、天智天皇のためにある」みたいな熱い気持ちがあってもいいんですが、何故かそういう恋愛感情はなさそうに、私には見えます。恋愛じゃなくて、理由はないんだけど、なんか服従しなきゃいけないと思い込んでいるような。すごく謎です。子どもへの愛情はものすごく強いのに、天智の意向に従って子どもを死に至らしめる。そのことが、将来の不比等の絶望にもつながっていきます。
天智は強い意思を持って朝鮮に出兵し、朝鮮のみならず、唐の国をも自分の手中におさめるのだ、と宣言するのでが、「何故唐を手に入れたいのか」「大陸を統治することによって何がしたいのか」は、私には理解できませんでした。朝鮮出兵のくだりを読んでいるときですら「こいつら、恋愛のことばっか考えてるじゃん、しかも近親相姦で。何故?もうちょっと政治にも考えを巡らそうぜ!」と、ずーっと、心の中で彼らにハッパをかけていたのですが。残念ながら、彼らは一生恋愛脳なのでした。唐に君臨したい理由もないし、唐や朝鮮についての調査もしてないし、中大兄と大海人はやすやすと唐に捕まってしまいます。中大兄皇子はとにかくずっと意地悪で浅慮で、見ていて悲しい。何をしてもどんな時でも、外見は19〜25歳にしか見えなくて、精神年齢は13歳ぐらいのいじめっ子。大海人はさわやかイケメンなのに性格がクズ。中村さんは画力がすごく安定しているので、2人ともいつも完璧なルックスで、なんか他のシーンのコピペみたいに見えてくるのでした、、、
って、ほぼ悪口のように書いてきたのですが、実際には私はこの作品を、めちゃくちゃ楽しんで読みました。あんまり賢くなくてサディストで見た目が若者で精神年齢が少年の中大兄皇子の行動が魅力的。古い絵に感じてしまう大海人の性格がかなり悪いところがめちゃくちゃ好きなんです。熟考して行動してもおかしくないはずの中大兄、大海人、豊璋が、読者から見ると「なんか考えてるふりをしながら、実際は場当たり的にその場の感情と目先のメリット/デメリット判断で生きてるでしょ」と思えるところが、魅力的で面白いのです。共感はまったくできないですけどね。なので、熟考して「入鹿の怨念」を抑えるために行動する行信と「聖徳太子」を生み出す発想には息を飲みながらも、読む熱度が、中大兄と大海人の時代と比べるとちょっと薄くなってしまうのでした。イケメンじゃない、というより、悪人面の行信が、入鹿を模した救世観音を確実に封じるために自分をかたどった像を設置するところもめちゃくちゃ魅力的でした。
孝徳天皇と有間皇子の描写もよかったです。19歳で天智の策略で謀反の罪を着せられて処刑された有間皇子は、長岡先生はじめ、多くの漫画家に薄幸の美少年として描かれていることが多いと思います(印象なので、まちがっているかも)。それに対して中村先生の描く有間は、難波宮に置き去りにされた孝徳天皇にうり二つの、ちょっとしたブサイク男です。病に倒れる孝徳天皇に寄り添う有間はおっさんに見えるのですが、だんだん所在なさげな繊細な少年に見えてきます。それが、処刑の間際、19歳になった有間は、ちゃんと4年分成長して見えるのです。美形のはかなげな有間皇子ではなく、運命を見据えて人間として成長して、矛盾してるけどたくましく死に対面した有間皇子がえがかれていました。私は中村先生が描く美男美女ではないキャラクターが好きなのかもしれません。
この作品は、新説・日本書紀、と銘打たれています。こんなとき気になるのは、それが、新しい文書の発見または既存の文書の解釈の違いを積み上げてアリバイにした新説なのか、ただ「こうだったら面白いね!」というただのとんでも歴史ストーリーなのか、という点です。この作品は、、、ただのとんでも発想なのかな、と思います。
あと、朝鮮の人々と唐のお役人たちの衣装も気になりました。このきらびやかな衣装って、どの程度当時と違うんだろう?外国人?きっと、いろいろしらべて時代考証して描かれたのでしょうね。漫画家さんてすごいなあ。

