特攻の島

『特攻の島』は佐藤秀峰さんの作品です。太平洋戦争末期に投入された特攻隊のひとつ、回天の特攻隊員として配属された渡辺を軸に、回天の開発者、訓練場を兼ねた回天基地を束ねる指揮官、回天を搭載し、隊員たちを死地に送り届ける責務を勤めた潜水艇の艦長と乗組員たちが描かれています。

私が考える、日本が最初に実行した、または有名にした悪しき振る舞いがいくつかあります。実際には日本発祥ではないかもしれませんが。ひとつは無差別バイオテロ。オウム真理教が引き起こした都市型の大惨事です。2つ目は無差別銃乱射テロ。テルアビブの空港で赤軍が実行しました。3つめは自爆攻撃。心情的に、テロという言葉はつかえませんでした。特攻隊です。今回はあらすじはまとめませんが、感想のなかにはネタバレが含まれています。この感想を読んでいただける方が、作品も読んでいただけると嬉しいです。

現在の自爆攻撃でまず思い浮かぶのはイスラム教徒によるものです。これを阻止するのが難しい理由は、イスラム教徒は教えのために自らを犠牲にすることで神の国にいけると信じているからだと聞いたことがあります。もちろん聖典にそんな教えはなく、現代のイスラムの過激な指導者が、より確実な攻撃方法として実施するため、信者たちに教え込んだとか。真偽の程はわかりませんが。以前は私はこれを「カミカゼに着想を得て戦士たちをいいように使っているのだ」と思っていましたが、自爆攻撃は日本人だけでなく、第一次、第二次の世界大戦で、ドイツ人も組織的に行っていたうです。キリスト教が自爆攻撃をさせるために利用されたという感じはあまりしないし、おそらくは、ドイツ人も日本人と同様、自分の国、あるいは大切な人を守るために命を散らしたのではないかと想像します。

太平洋戦争末期、兵隊さんたちは、圧倒的な国力差を感じていたものと思います。神風で、回天で、震洋で、桜花で、伏龍で。帰ったり脱出したりする機能や動力すら持ち合わせない機体に乗り込み、特攻して敵に少しでも被害を与えるように命じられた方たちは、日本がそこまで追い詰められていることを、強く感じたに違いありません。その時彼らが命を捧げた理由は、おそらくは愛する人たちを守ることですが、それでもその人の名を呼ぶかわりに、「天皇陛下、万歳!」と叫んで亡くなっていった人も多かったのではないかと思います。

回天は、魚雷に人ひとりが乗り込めるように改善したものです。潜望鏡はついていますが、敵に発見されないように海に潜航して敵船に体当たりするという性質上、目を使って敵の方向や位置を把握することはできません。神風では、ほとんど訓練もないまま出撃命令が下ることもあったようですが、目にたよらずに操縦しなければならない回天では、より過酷な訓練が不可避でした。訓練中に命を落とす隊員もあったそうです。戦争という枠組みの中では、おそらくは「訓練で◯%の兵士の命が失われる想定」というような恐ろしい試算も行われたのではないかと思います。

個々の機体に高度に習熟する必要があったため、回天には、それぞれ決まった搭乗員が割り当てられていて、「渡辺機で出撃できるのは渡辺だけ」と決まっていたことを、この作品を読んで初めて知りました。

しかも、回天は水深80mまでしか潜れないので、回天を運ぶ潜水艦が、検知を避けるために深く潜航すると、それだけで機体が破損してしまうのです。

作品の中では、回天を守って浅い水深で敵によって発見されて攻撃されて沈没して全員の命を落とすのか、それとも攻撃されるリスクを犯して回天に特攻員が乗り込むために浮上し、敵を回避しつつ回天を発射させるのか、はたまた回天を捨てて少しでも船体を軽くして逃げるのか、艦長が悩むシーンが描かれます。特攻員たちはもちろん回天で出撃したがりますが、艦員たちは回天を捨ててでも逃げのびることを希望します。

悲惨なのは、そうやってせめぎ合いがあった後に、艦長が回天を放棄することを選び、100%の戦死を覚悟して出陣していた特攻員が基地に戻ったケースです。死ねなかった臆病者扱いされてはずかしめられてしまうだけでなく、一度出陣したものには、二度と出撃命令を与えらる、という掟により、生きて還った隊員は「汚名」をすすぐことができないのです。面と向かって「臆病者」とののしってくる、雲の上の将校もいます。その屈辱に、生きていても死んだようになってしまう兵隊さんに、読んでいて涙がとまりませんでした。

基地から特攻隊員を送り出す指揮官たちの苦悩も、並大抵のことではありません。回天は、その操縦性の悪さから、航行中の戦艦を狙うことをせず、停泊中の戦艦を狙っていました。

神風が初期に戦果を挙げたものの後期は米国艦隊の対策により効果がなく、ただただ若い人たちの命をいたずらに散らすものになっていたことは有名ですが、回天においては、最初の攻撃以外はほぼその戦果はなく、戦後の日本調べで2%という低い成功率、米国調査に至っては「影響は確認できなかった」と伝えられているそうです。

特攻隊員が「停泊中の戦艦しか狙えないのであればそれは犬死にではありませんか!死ぬのはイヤではありませんが、犬死にはしたくありません」と訴えるのに対して、指揮官は「これは死ねという命令だ」と答え、特攻隊員ではない古兵たちは鉄拳制裁を浴びせます。

しかし、そんな指揮官も、内心では、隊員たちのひとりひとりにわが子へと同じ愛情をかけ、具体的な憎まれ役を買ってでているのです。効果にかかわらず死ねと国が言うのだから、軍人である以上、指揮官は隊員に死ねと言うよりない。そこで「そうだよな、ひどいよな、でもそういう作戦を上層部はたてたんだよ。」と言うのではなく、わからず屋で保身に走った現場上司として自分を恨ませることしか、指揮官にはできないのです。

戦後、多くの指揮官が自決します。おそらく彼らもずっと、その時を待ちながら、若者たちを見送っていたのです。自決を果たせず、翻意を促された指揮官たちもいます。徴兵されたのではなく職業軍人であることを選んだ彼らは、戦後どのような苦難に満ちた人生を歩んだでしょう。

当たり前のように上級国民として生まれ、軍のエリートとなり、戦犯として裁かれるも死刑を逃れたために後に市民権を復活され、朝鮮戦争による特需に支えられて、日々の生活に一生困ることもなく生きていった人たちも多いこととは思います。でも、私がかんがえるべきは、正直自分とは接点がなくこれからもたぶん様々な私の知らない利益を享受していく上級国民のことではなく、自ら「若者を死に追い込んだ」事実を正視し、それを忘れないこと、忘れさせないこと、次の世代に同じ思いをさせないために何をすべきかを考える人たちの気持ちだと感じました。

東西ドイツが統合されたとき、ソビエトが解体されたとき、世界は幸せになっていくのだと思いました。でも、実際には、世界において、譲り合えない互いの主張の対立はより深刻化し、様々な紛争の解決の糸口は、ますます見えなくなっています。この作品では、特攻隊員は「殺してやる!」と叫んでいますが、実際、現在の戦争から離れた安全な立場で、たとえば中東の紛争を見ると、互いに赦すことでしか問題を解決できないけれど、とてもじゃないけど赦すことのできない不幸な歴史の積み重ねを感じます。「殺してやる」と叫び続けることでしか自分の生と死の意味を見出せなかった当時の日本の若者の気持ちをふみじらないために、自分が何をすべきか。そんなことを考えさせられました。

いえいえ、もっともっといろいろ考えさせられましたよ。4巻ぐらいから、ずーーーっと泣きながらこの本を読んで、考えたことはいっぱいありました。でも、漫画の感想の域を超えた主義主張になってしまうので、ここらへんでやめておきます。

回天が潜水艦に収容されて航海にでたとき、私が思いをめぐらせたのは潜水艦での生活の過酷さでした。原子力潜水艦においては、空調もきいて快適な航行生活を送ることができ、女性隊員も潜水艇に配属されるようになっている、とネットで読んだのは、もう10年以上前だったと思います。それ以前は、そしておそらく今でも原子力潜水艦以外では、潜水艦では空気、水、食料などすべて不快な状態で、なかでも「臭い」には強烈な課題があると聞いています。本作でもでてきますが、まず水が不足するので、入浴することもできず、艦員の体臭だけでも強烈なものとなり、ただでさえ締め切った湿気の多い環境と、ゴミも艦内に保存しなければいけないという特性から、潜水艦における異臭はたいへんなものであり、ほんとかどうかしりませんが、潜水艦に3か月乗ったら、そのあと3か月は臭気消しの生活を送ってからでないと、とても一般社会に戻れない、という噂をききました。この点、太平洋戦争の時代には、いまよりさらに過酷だったものと思います。

作品の中でも、敵艦隊に検知されてしまい、浮上して全員殺られるか、全員窒息して死ぬかの二択に迫られる場面があります。潜水艦での過酷な生活がことこまかに描写されていて、臨場感がありました。

潜水艦がでてくる有名な映画のひとつに「レッド・オクトーバーを追え」があります。音だけが頼りで、自分の痕跡を消すためにあらゆる電源を最小限まで落として、響くソナー音に期待と不安を高める緊迫したシーンは印象的でしたが、あの映画を観たおかげか、この作品でも、音をまつわる攻防(一方的に日本の潜水艦しか描かれませんが)にも臨場感があり、息を詰めて読み進める状態でした。

戦争をしてはいけない。若者たちの命を取らせてはいけない。それを改めて感じさせる重たい作品でしたが、読んでいると、あっという間でした。