『ユースティティア 殺人裁判官の判決』は、漫画 いわや晃さん、原作 奈生さんの作成です。巷では、悪辣な犯罪を犯しても、警察捜査のちょっとした杜撰さや、法律の抜け道、あるいは、客観的には推し量れない本人の反省の情などを武器として、裁判になっても、本来受けるべき刑罰を逃れる輩がいます。
裁判官の三倉とその同僚たちは、被告に正しい裁きを下すことを目指して日々、業務にあたっています。しかし、裁判長であっても、感情が「犯人にはこの罰が適切」と命じる判決を下せるわけではありません。たとえ心情的に「この犯人の反省そている素振りは、判決を軽くするための方便にすぎない」と感じたとしても、それを検事が客観的に立証できない限り、裁判官の判断で決めつけることはできないからです。
ここから先は、ネタバレがありますのでご注意下さい。

同僚から「裁判官にしても、真面目すぎる」と思われている三倉には、裏の顔がありました。実は三倉は、自分が裁定を下した、「裁判により不当に緩やかな判決を勝ち得て、罰から逃れた」と思われる元被告たちに、それ相応の罰を与える、私刑執行人だったのです。私刑を下すと、三倉は遺体の傍らに、ユースティティア、天秤と剣を手にし、目隠しをした正義の女神の像を置きます。

えっ?あれっ?そっくりなお話、読んだ気がするんだけど?あれ?この作品だったっけ?と思ってしまいました。違いました。思ってたのは、原作 草下シンヤさん、漫画 内田康平さんの『私刑執行人』でした。こちらでは、女神のことは、ユースティティアではなく、アルテミスと呼ばれており、執行人は弁護士です。まあ、似てるっていえば、原作 古賀慶さん、作画 井澤了さんの『ブルータル』も似てますね。ブルータルは、正義のためではなく、刑事が己の犯罪欲のために処刑を行うところが、お話の構造として決定的に違いますが。
全3巻の作品ですが、1巻2巻と3巻の表紙の印象が全然違います。1巻の表紙は、天秤を掲げたユースティティアで、大きな口を開けて笑う口元の八重歯は鋭く尖っています。背景は、燃え上がる火を思わせ、凄惨な印象を与えます。2巻は三倉のアップ。血に浸した指で擦った顔にも血がベッタリとつき、白いワイシャツの襟も血で汚れています。転じて、最終巻では、白い光の中で、三倉がこちらを見下げる視線を送り、口元には笑みをたたえるています。読者の気持ちでどうとでも取れる意味深な表紙。すきです。
こういった作品では、単話で読んで、虫唾がはしるような犯罪者に、それ相応の報いが下されることによる「スッキリ感」と、主人公がこういった奇行に走るに至った背景が、作品の評価を決めることが多いのではないでしょうか。トータス杉村さんの『報復刑』では、犯罪者への報復は、私刑ではなく、国家が認めて、被害者家族が手を下すため、シリーズ通しての主人公なるものは存在せず、読者は、作品から受ける「犯罪と報復」に対して自分が抱く感情とストレートに向き合うことになりますが、執行人が主人公だと、処刑そのものだけでなく、執行人になろうと思った主人公と、その周囲の感情に向き合うことになります。そういう意味で、『ユースティティア』は、『私刑執行人』とはまったく違う作品として訴えかけてくるものがありました。
ムカシから気になっていたことがあります。いじめ被害者が自殺してしまった場合、加害者の心中はどうなるか、でした。ムカシは「罪悪感に苛まれると思う。」と思ってたけど、最近実際に「裁判で有罪になって服役して出てきて、まだ後悔してないんだね」という実例が報道されてますし、本人の言葉が伝わってこなくても、親が「うちのコは悪くない。いじめられるような子どもを育てた親に責任がある」と堂々と述べているケースが度々みられる気がします。そういう世相がなくても、「正義の人」が「悪人」をやっつける話はムカシからありますが、やっつけられ方は、どんどん残忍になっている気がします。とはいえ、日本刀で切り捨てたり、カンザシで頸動脈刺したたり、三味線の弦でクビ吊ったり、っていうのも、まあ変わらないっちゃ変わらないか。(必殺仕事人のハナシです、もちろん。)
この作品は、3巻できっちり、「復讐しないことができるのか」という読者が持つ疑問に、作者さんが答えてくれました。大切なものを失ったとき、それをせせら笑う相手には、人間は、是非の問題ではなく、苦しめられてしまう、ということだと思います。
戦争とか、死刑制度とか、話を広げるつもりはありません。でも、三倉がユースティティアに直接問いかけなければいけない状態が、できるだけ発生しないでほしいと、願うばかりです。